たまりば

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つれづれなるままに、思い出した戦国小ネタを気が向いた時に更新します!

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Posted by たまりば運営事務局 at

2007年12月29日

聖武の器

ちょいネタを求めて更に三千里。

毛利元就さんの次男、吉川元春。猛将の誉れ高く、弟の小早川隆景と共に、甥の毛利輝元を支える。

その元春の嫁取りの話し。
元就は元春に意中の者がいるかどうか問うべく、家臣の児玉某にそれとなく探らせる。元春は熊谷信直の娘を望んだ。
不審に思った児玉は元春にその真意を確認した。
なぜなら、熊谷信直の娘は評判の「醜女」だったからだ。ようするにブスです。天下の周知のブス。うん、それは言い過ぎ。

すると元春は、
「熊谷の娘がブスなのは知っている。ただこの中国に、熊谷信直に勝る侍大将はいない。信直は娘が嫁に行けないのを不憫に思っているに違いない。俺が熊谷の娘を娘を望めば、熊谷は俺の意気に感じて、俺の為に共に戦ってくれるに違いない。俺は熊谷を舅につけて、中国地方を暴れ回る」
元春の言葉を伝え聞いた元就は「神妙なる心掛け」と大層喜び、さっそく熊谷家に縁談を持ち掛けた。

熊谷は飛び上がるほど娘の縁談を喜び、毛利家、ひいては婿殿元春の為に不借身命の働きをした。

20歳の元春と戦った毛利の宿敵尼子国久は、若い元春を侮ったが、軍団の駆け引きの巧みさが 20歳のそれではなく、「さてもさても毛利元就はめでたい大将だ。子供まで上手く産みおった」と嘆息したそうだ。

勿論、吉川勢の強さは、精強熊谷衆に起因するのは言うまでもない。
ちなみに、元春はその娘との間に三男二女をもうけている。
三男が毛利家の運命を左右させた広家である。

ちと長い…
  


  • Posted by せんごく at 03:00Comments(0)

    2007年12月26日

    ちゃっかり三河武士

    より簡潔なネタを求めて三千里。
    家康さんの部下、鳥居彦右衛門元忠。
    家康の人質時代から苦楽を共にした、頑固一徹ミスター三河武士。
    秀吉さんが、家康の主な部下に官位を与えようとしたところ、元忠は「殿下の前で粗相をするやもしれませぬから」と天下人の厚意を拒否。
    秀吉の人たらし術には乗らぬぞ、との元忠なりの意思表示です。

    そんな彦右さん、あるとき家康さんから武田の猛将・馬場美濃守の娘を捜せと言われる。絶世の美女と評判だったからだ。
    ところが彦さん、家康さんには「みつかりませんでした」と報告しておきながら、ひそかに自亭に匿っていました。
    その後、馬場の娘が鳥居家に居ると知った家康は「彦右の奴、ちゃっかりしとる」と苦笑いだったとか。

    主の為なら命も惜しまない三河武士が、女の事で主に平気で嘘をつくのが、私にはかなりツボです(笑)

    ちなみに彦さん、この娘との間に二男三女をもうけています。

    確かに彦右、ちゃっかりしとる。
      


  • Posted by せんごく at 12:16Comments(0)

    2007年12月19日

    晴信少年

    武田信玄さん、13歳のエピソード。
    今川に嫁いでいる姉さんから、蛤が3千個ほど届きました。絵を描く遊び道具ですね。
    信玄さんは、家臣におおざっぱな数を当てさせます。
    ある者は5000くらいだろう、と。またある者は10000くらいだ、と。
    少年信玄はそれを聞いて、
    「うん、やっぱり数ではないな。5000の手勢を手足のごとく操ることが出来れば、10000にも20000にも見せることができる」
    と一人ほくそ笑んでいたようです。
    孫子の兵法を愛読した信玄ならでわのエピソードですが、13歳…。
    不気味だ… 不気味過ぎる…
      


  • Posted by せんごく at 22:00Comments(2)

    2007年12月17日

    加藤左馬助嘉明

    感動話第二段。
    加藤嘉明。通称左馬助。秀吉さん子飼いの部下で、賎ケ嶽七本槍の一人。
    嘉明さんというと、伊予松山城を思い浮かべます。あの壮大にして美しき城。
    秀吉さんの子飼いは加藤清正はじめ、築城名人が多いですな。

    それはともかく嘉明さん。部下に西川某(仮名)という武士がおりましたが、関ヶ原の戦いの後、西川は、
    「訳あって出仕を辞退する。ただ二君にはまみえず。お家の一大事には必ず駆け付ける」とだけを言いを残し、友人が留めるのも聞かず、勝手に禄を返上しいずこかに旅だってしまった。
    脱サラしてフリーターになったのだ。
    西川はその後、14年間諸国を転々としたが、徳川と豊臣、東西手切れとなっていざ合戦、となった時、「すわ、お家の一大事」と加藤家に駆け戻ってきました。
    西川は流石に気まずかったのか、友人にだけ戻ったことを伝えると、友人から主人の嘉明まで話が行き、謁見となりました。
    ドキドキの西川くん。そりゃそうです。勝手に仕事を投げすてていなくなった訳ですから。殿さまに「よぅ西川、ノコノコ舞い戻ってくるとはいい度胸だ」
    と切腹を申し渡されても文句は言えません。あれこれ考えて気絶寸前の西川くん。そんな時に嘉明が現れ、
    「西川、しばらくだな。元気にしておったか。お前が戻ってくるのを待っていたぞ」
    と嘉明。
    ひたすら恐縮するしどろもどろの西川とは裏腹に、帰参の話はとんとん拍子、見事西川の再出仕が決定しました。
    「とっ殿!手前の帰参をお許し頂けるとは…!」
    感動の西川。
    そこで嘉明の旦那は、「西川にあれをもて」と、西川の前に、ドスンッ、と山の様な金を用意させました。
    わけがわからず目が点の西川に、
    「西川、お前の14年間分の給与だ。お前が帰って来ると信じて、お前の分の給与をとっておいた。受け取れ」
    と嘉明。
    西川はビックリ仰天して、
    「殿!私はこの14年間仕事をしておりませんでした。どうしてこの金を受け取れましょうや」
    と西川。当たり前です。
    すると嘉明は
    「いや、お前は確かに仕事はしておらなんだが、この14年の間、主君はこの嘉明だけと決めて、他家に士官することもなく、貧乏暮らしを送ってきた。そしてこの東西手切れに及んで当家に戻ってきてくれた。わしはその心根が嬉しい。だからお前にこの金を受け取ってもらいたいのだ」と。
    西川は涙を流して
    「私は馬鹿なことをいたしました。もう二度とご当家を離れたりはいたしませぬ」

    西川がその後、加藤家の為に不借身命の働きをしたのは言うまでもありません。
      


  • Posted by せんごく at 00:22Comments(0)

    2007年12月11日

    蒲生風呂

    今回は感動ものネタでいってみようかなと。会津宰相蒲生氏郷(ウジサト)殿。近江日野城主、蒲生賢秀?だっけな、の嫡男として生まれ、蒲生家が信長さんに降参したとき、人質として信長さんの元に行きました。
    氏郷くんは通称忠三郎と名乗りましたが、才気溢れる忠三郎少年は信長さんの目にとまり、娘の冬姫?を嫁に与えるほどでした。
    そんな忠三郎氏郷くんは、合戦場では勇猛果敢、また連歌をよくし、茶は千の利休の高弟として腕はぴか一、非の打ち所がないほど文武両道のミスター安土桃山、といってもよい男です。直言して憚らないのがちと玉に疵ではありますが…
    さて感動話、これはまだ忠三郎さんが会津92万石の大大名に出世する前の、まだ貧しかった頃の話。
    あるとき、忠三郎は戦で功のあった家臣5名を自分の屋敷に招きました。
    主人から招きのあった5名は喜び勇んで屋敷へと足を運ばせました。
    「おぉ、よぉ参ったな。待っておったぞ。ご馳走も用意してあるが、まず湯にでも浸かって汗でも流せ」
    と忠三郎。
    家臣たちは主人に言われるままに風呂場へと足を運びます。
    「殿の屋敷で風呂を頂くなどとは贅沢なもんじゃ」
    「まっこと。いい湯にござる」
    と、思い思いに湯を使っていると、外のカマドの方から、
    「湯加減はどうだ?」と一言。
    家臣たちは皆、ハッと顔を見合わせます。
    そう、自分達の使っている湯を外で沸かしているのは、主人の忠三郎氏郷その人でした。(しまった…知らぬとはもうせ、殿様に湯を沸かせてしもうた…)家臣達は皆一様に顔を真っ青にして、どうしてよいかわからなくなっている所、
    「おまえ達の命懸けの働きに充分な恩賞も出してやれずにすまぬ。今わしがしてやれることはこんなことしかないが許してくれ」
    と、忠三郎。
    主人の温かい思いやりに、家臣達は皆風呂場で男泣きしました。

    家臣達はこれを「蒲生風呂」と呼び、殿様の屋敷で風呂を頂戴することを、家臣として最高の栄誉としました。
      


  • Posted by せんごく at 21:34Comments(2)

    2007年12月06日

    名将

    立花道雪といえば、はい、大友宗麟を支えた九州一の名将ですな。信長の野望をやっていて「あれー?このおっさん、なんでこんなに強いのー?」って思われた方もいらっしゃるかと思います。
    しかも強さがケタ違い。ええ、このサンオツ、若い頃落雷の衝撃で下半身不随になってしまったのですが、ではなぜ強いのか?
    つまるところ、褒め上手です。
    道雪の信条は「世の中に駄目な奴なんていない、そいつが駄目なのは大将が悪いのだ。わしのところにくれば一人前の男にしてやろう」です。
    家臣が客人の前で粗相をしたとき「コヤツは畳みの上ではイマイチちゃんだが、槍を握らせれば千軍万馬ですぞ」と槍をしごくマネをしてフォローをいれる。
    手柄のない家臣には「手柄がないからと焦るなよ。いつまでも生き抜いてこの道雪を守ってくれよ」と武具を与えて慰める。
    「あの鈍臭いすっとこどっこい。全く使えん!」と批判されてる部下がいると、「あやつはただボーとしておる訳ではない。元来思慮深いのだ。誰にも考えられない戦略を練っているに違いない」と本人がいないところで吹聴する。
    上司に目をかけられる、期待されてると知った部下で、発奮しない者はいないでしょう。彼らがこぞってその後の合戦で手柄を立てたのはいうまでもありません。

    道雪は下半身不随の為、出陣する際は輿に乗り、周りは屈強の兵100人程で固めさせ、片手に火繩銃、片手に軍配か刀かこん棒か、を持って督戦したそうです。こん棒なわけないか(笑)
    自軍が窮地に陥ると「ほーれ!わし(輿)をあの敵陣に放り出せ!」と叱咤激励したそうです。
    道雪の部下も、自分達の大将を敵陣に取り残していくわけにもいきませんから、大将を守るため、皆が一丸となり火の玉となって戦ったそうです。
    だから立花隊は無類の強さをほこったのでしょう。

    大将たるもの、常に配下の者には心こまやかな配慮が必要だということです。勉強になります。
      


  • Posted by せんごく at 06:59Comments(2)

    2007年12月03日

    柳川侍従

    戦って無敗の男、立花宗茂をご紹介します。知名度は低いですが、人物としてはなかなかどうして、当代一流の品格を持った武将ですね。わたくしの好きな武将の一人です。
    宗茂は九州は豊後大友家の二枚看板、高橋紹運の実子にて、立花道雪の養子となり立花性を名乗りました。
    九州統一を狙う島津忠長勢五万を相手に一歩も引かず、関白秀吉の援軍が来るまで立花城を小勢で守り抜きました。(実父の高橋紹運はこの時、関白軍来援の時間稼ぎの為に岩谷城だか宝満城だかで忠長勢と1500の手勢で悠々と戦い、討ち死にしております)。
    宗茂は実父の死を無駄にせず、関白軍来援に勢いをつけ、撤退する島津軍を追撃してさんざんに蹴散らし、敵城を一つ力攻めで落とす奮闘ぶり。
    秀吉は、大友軍が次々と島津方に打ち破られ、寝返りが続出するなかで、父とともに最後まで落ち目の大友家を支えようとした宗茂の忠義と、城を守り抜くに飽き足らず追撃して敵城を落とした剛勇ぶりを「鎮西無双」と絶賛しました。
    宗茂は大友家家臣から秀吉の直臣となり、累進して筑後柳川で13万石の大名となりました。
    官位も秀吉の斡旋で「従四位下侍従」となりましたが、宗茂は「旧主の大友義統殿(宗麟の息子)がいまだ従五位下であるのにわたくしが四位を頂くわけには参りません」と断ったそうです。
    秀吉さんはこういう青年武将は好きでしょうね。
    義に篤く、節を重んじ、若くして沈着冷静、かつ勇猛果敢ときたもんだ。
    大友のすっとこどっけいなんかの家来にしておくなんて勿体ない。直臣にしたくなる気持ちもわかります。
    宗茂さん、マイナーな割には数々のちょっとしたエピソードのある人物です。
    またちょこちょこご紹介いたしましょう。
      


  • Posted by せんごく at 13:00Comments(0)