たまりば

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つれづれなるままに、思い出した戦国小ネタを気が向いた時に更新します!

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Posted by たまりば運営事務局 at

2007年11月16日

諌言すること

徳川家康さんは「諌言をすることは、一番槍よりも難しい」と言ったそうです。
確かに普通は主人に追従こそすれ、牙を向けるなどは誰でも嫌がります。
そりゃそうですよね。バトルにもなりかねませんし、なんなくても睨まれることになるかもしれない。最悪切腹ですから。
出来れば平和に付き合いたいのが人情でしょう。
だからこそ、主人に対し「駄目なものは駄目」とハッキリ言うことは、戦場で敵を真っ先に討ち取るよりも難しいということなのでしょう。
諌言役の家臣がいて、その主君が耳に痛いことを聞くことの出来る度量があれば、その組織は正しかろうと存ずる。
組織とはかくありたいもので。
  


  • Posted by せんごく at 00:54Comments(2)

    2007年11月14日

    Bigなのになぜ?

    筑後柳川といえば、そうあの旦那、立花宗茂!ではなくて、今回は田中吉政です。小ネタというか、小さな不思議。
    田中さん、秀吉さんの家来として累進し、豊臣政権下で三河の岡崎でしたっけ、東海道のどっかで10万石程度の大名だったと記憶してます。江戸の徳川対策として、万一家康が秀吉に叛旗を翻して上京してきたときは、駿河・遠江・三河東海三国で食い止める為に選ばれた家来ね。それなりに秀吉さんから信頼されてたオッサンです。ちなみに、駿府に中村一氏、掛川に山内一豊、浜松に堀尾吉晴、そんで確か岡崎に田中さん、清洲に福島正則。清洲は尾張だけどね。あれ、どっかに生駒なんとかが入ったけな?
    それはともかく、関ヶ原の合戦の際も家康方東軍に属し、その恩賞として筑後32万石に封ぜられました。
    大大名です。豊家出身では加藤清正、黒田長政、池田輝政、福島正則につぐくらいの大出世!
    にも関わらず、こいつの名言・武勇伝が一切ない。もちろん全くないわけではないのだろうが、あたしが読んできた本の中には出てこなかった。30万石クラスの大名のくせに!
    田中吉政をフィーチャーした本もない!森可成とかですらあるのに(笑)たいがいはあんなことやった、そんなこと言ったと、なんか一つくらいあってもよいものを。えぇ、いいんですよ、謙信さんの「酒の肴は梅干しに限る」程度のことでもいいんです(笑)(戦国武将一日一言よりPHP文庫)。そんな他愛ないエピソードすら聞こえてこない!コイツは何者なんだと。
    まぁ、関ヶ原後、落ち武者狩で朋友の三成さんを捕まえたっつーくらい。でもまぁこれは事実なだけでエピソードでもなんでもないけど。
    まぁでも不思議です。仮にも30万石クラスの大名にまでのし上がった人物にも関わらず…わたくしめが不勉強故しらぬだけなのかどうか…
    口説いですが 30万石…。
    まぁ、コヤツは結局城普請等で領民を搾取しすぎたことで自滅したので、所詮はその程度の男だったのであろうなと。
    まぁ諌言出来る家来がいなかったんでしょうな。大将に迎合するばかりの組織は駄目になるってことですね…。
    また長くなった…
      


  • Posted by せんごく at 19:57Comments(0)

    2007年11月11日

    石高制って

    戦国時代も末期になると、土地の広さを石高(こくだか)で表すようになりますが、その侍が、何石取りの侍なのかどうかでその人の地位や実力がおおよそわかります。
    例えば一万石の領土があるとすると、250人の動員兵力があると考えられています。一万石以上の侍は大名(だいみょう)と呼ばれます。
    ちなみに、1石は人間一人が一年間で食う米の量のことです。
    当時は侍の恩賞=土地でしたから、戦国の武士は一寸でも多くの領土を増やすのに躍起になりました。
    それはともかく、一万石で250人だとすると、100万石で25000人の兵士を動員できます。逆に、千石だと25人です。なるほど500石だとさらにその半分。

    あたしが個人的にひそかに妄想して楽しんでいるのは、例えば千石取りの侍なら25人の社員を採用してる社長って考え(笑)。
    社員が100人くらいの会社なら、4000石取り程度の会社だなと(笑)
    そう考えると、今も昔も大名になるのはホント大変だなと(笑)
    戦国時代という高度成長期なら、手柄次第でどんどん出世出来ますが、泰平の世では経済が飽和状態で出世もなにもない。
    ゴマスリかよほどの努力研鑽があっての加増しか望めないんですね。
    関ヶ原合戦の際、柳生旧領3000石の復活を賭けて参戦した柳生宗矩殿、剣法指南役という立場で徳川時代の泰平の世で、大名にまで出世したのはたいしたもんです。二代将軍秀忠の側近というナイスポジションだったからかな。
      


  • Posted by せんごく at 00:51Comments(3)

    2007年11月09日

    小ネタとは関係ないけど

    時代小説を読むときって必ず想像力を働かせて読むんです。
    私は文字を追いかけてその作家の表現力を堪能する傍ら、その場面を頭の中で想像しながら読むんです。自然と。多分皆さんもそうだと思いますが。
    一度想像した頭の中の映像は絶対のもので、何度読んでも漫画を見るのと同じように同じ映像を想像します。
    想像力は千差万別ですから、幾通りもの楽しみ方があることになります。
    私はまれに、小説の一つの場面で、別の人ならどんな風景を想像するんだろう、と考えることがあります。
    なんとかその想像上の映像を現実の映像におとしこんで、想像力を比べっこしてみたいと思うことがあります。
    まっ 相手の頭の中を読み取れるようなドラえもんの未来道具でもなきゃ無理だけどね(笑)
      


  • Posted by せんごく at 03:24Comments(2)

    2007年11月08日

    戦国無双にさ、

    聞いたとこでは、『戦国無双』では、本多忠勝がもの凄い強いそうですね。このblogでも取り上げたことありますが。まぁ三国志でいう呂布みたいなもんか。平八のとっつあん、流石です。
    でもゲームに出て来るキャラは戦国武将としてはメジャー過ぎて面白くない。
    もっと通常ではゲームで主役を勤めれない、天下の猛将智将を扱った『外伝』とかあっても面白いと思う。
    後藤又兵衛、馬場信春、立花道雪、山中鹿之助、北条綱成、伴団右衛門、松永久秀、木村重成、渡辺勘兵衛、吉川元春等。ナドナド。
    実力十分だけど知名度がいまいちだったり、「〜家にその人あり」といわれた連中の外伝。
    あたしはオモロイと思うね。あたしだけ??否、売れるっつーの。マニアが買うっつーの。KOEIさん頼むっつーの。


    まぁ、そもそもあたし、戦国無双やったこともなければプレステ自体も持ってないんだけどね(笑)
      


  • Posted by せんごく at 09:44Comments(4)

    2007年11月06日

    寝れん!寝れんぞ!そんな時には

    よっしゃ!次!短く、且、内容ある小ネタを!うん!無理!
    ミスター戦国大名こと北条早雲さん。後北条小田原五代の祖。天下に名を轟かせたのは齢60。小田原城を乗っ取ったのが70代だっけ?死んだのが88歳。人間50年の時代だから、とんだハッスルジジイなわけだこれが。
    税をそれまでの六公四民から四公六民にするなど、非常に領民を労った名君でしたが、とにかく武士は本を読め、との名言を残してます。常に懐中に本をしまって、僅かな時間を利用してでも本を読んで文字に慣れ親しんでおくべきだ、と言っています。文武両道は今も昔も変わりません。テレビで本を読んでますか、のアンケートで、読んでない人の一番の理由、「時間がない」。ウソこけっつーの!読むことを強制はしませんが、読む気もない人が言う理由じゃありませんよね(笑)
    本を通して時代を遡り、世界の名将知将、文豪達と会話が出来る、素晴らしいツールです。誰も頼ることが出来ないとき、本に答えが載ってるかもしれません。迷ったら本にきく。早雲さんにあやかりたいものです。
      


  • Posted by せんごく at 03:10Comments(4)

    2007年11月06日

    攻めてなんぼ!載せるでぇ〜

    今回はホントに小ネタ。戦国の霸王、信長さんには確認されてるだけで22人の子供がいたそうですが、そのうちの5男勝長くんは、本能寺の変で、兄貴の信忠とともに二条城で奮死したんだって。
    享年15歳だかなんだか。歴史に出て来るのはこの時くらいだけど、信長さんの息子さんってことで、一体どんな育ちをしてたんでしょうか、気になります。勝長くんの弟たちは、当然ちびっ子すぎて何の役にも立たなかったんでしょうけど、その後の消息がやっぱり気になりますね。 どなたかご存知の方いらっしゃいますか?教えて下さい。
    ちなみに、信長さんの長男は信忠さん(ザ・ノーマル)、順に信雄さん(北畠に養子、強欲のすっとこどっこい)、信孝さん(神戸に養子、辞世の句が強烈)、秀勝くん(秀吉さん養子)、そんで勝長くんです。
    次回はもっと短くしましょう。
      


  • Posted by せんごく at 02:42Comments(2)

    2007年11月05日

    9月18日の記事

    いやいや、七日一言が聞いて呆れる。すっかり一月一言になっておりますが、そんなこまかい話しは抜きにして、今日もいつも通り始めてみますか…
    小ネタですよ、ええ、戦国通には毎度お馴染みのちり紙交換同然のネタですよ。どうしましょうかね、今日は何となく、渡辺勘兵衛了をやってみますか。了ちゃんです。読みは「さとる」です。
    なんで渡辺勘兵衛かというと、司馬さんの『軍師ふたり』を読みました。
    話飛びますけど、あたくし、実はあんまし司馬さん読んでないんですよね。歴史小説会の大御所なのに。初めて読んだのは「功名が辻」、そんで「関ヶ原」。少なっ(笑)べつに理由はないです。隆氏の『一夢庵風流記』が好きでしばしば読みます。隆先生の作品は少ないので隆ワールドを体感しやすい。とりあえず全部集めました。どれもこれも面白いですね。わたくし、色んな方の作品を読み比べたりはしないので、どう面白いのかと聞かれると困るのですが、ある方の評論によれば、『みちみちの者』という『上ナシ(自分たちよりも偉い人はいない、自分を縛るものはなにもない)』が信条の人々が作品の根幹にあり、それが隆氏のほぼ全作品共通したテーマとなってます。
    話しが飛んでしまいましたが、勘兵衛さんでしたね、えぇ、この男に関してのちょっとした経歴は『軍師二人』を読んで初めて知りました。『メジャーな戦国陪臣リスト』には確実に載る(そんなのありませんが…)人物です。
    私が勘兵衛を初めて知ったのは、藤堂高虎が渡辺勘兵衛を二万石で召し抱えた話しです。まっ それしか知りません。高虎と仲の悪い加藤嘉明が「藤堂は阿呆だ。渡辺に二万石を出すくらいなら、百石とりの侍を二百人採用した方がましだ。渡辺がどんなに強くても二百人に囲まれたらどうにもなるまい」と陰で言った事に対し、「加藤殿はわかっていない。渡辺ほど武勇の士ならば、『ここは渡辺勘兵衛が守ってるぞ』と敵方に伝わるだけで、敵は攻めてこれないものだ」と言ったエビソードです。
    陪臣で万石とりの人物はそういません。軍に強い人物はいくらでもいたでしょうが、万石をもらうにはよほどの武功と実力、名声がないと無理です。
    渡辺勘兵衛はそれだけでも一流の人物だったのでしょう。

    あの、この記事9月に載せる予定だったんですが、戦国小ネタとかいいながら長い!小ネタになってないので一端終了します。
    今度はホントに小ネタで勝負します。
    中途半端で誠に恐縮。  


  • Posted by せんごく at 07:50Comments(0)