たまりば

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つれづれなるままに、思い出した戦国小ネタを気が向いた時に更新します!

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Posted by たまりば運営事務局 at

2008年06月13日

慶次郎。

お久しぶりです、まさかの、拙者めでございます。
いやはや、まったく四ヶ月ぶりの更新でして…いやはや。

昭島の古本屋にぶらりと寄ってみると、今年一月に初版が出た「前田慶次郎」PHP文庫が100円でした。新品同等、なぜ100円。迷わずGETで即読破。
前田慶次郎というと、あっしには隆さんの「一夢庵風流記」がすぐピンとくるのですが、この慶次郎では一夢庵には描かれてない、慶次郎の滝川軍での活躍が大半を占めています。とても興味深く読ませて頂きました。漫画の「花の慶次」を意識した描写も所々にあります(笑)
そして再確認したのは、慶次郎にとって利家は年下の叔父だったんですね。
そして対最上撤退戦で大活躍した殿軍の慶次郎、まさかの60代後半のじい様。ハッスル極まりないじい様です。
誇張は当然ですが、しかし天下無双の強さには胸がスッとしますよ。
やられる方としては災難でしかないですが(笑)
  


  • Posted by せんごく at 11:37Comments(0)

    2008年01月13日

    権兵衛

    しかし、小ネタというのは意外に難しい…
    ちっとも小ネタにならない…

    小ネタというより、瞬ネタで行きたい。

    そう思う今日この頃。
    平野権兵衛長泰。

    秀吉の部下で賎ヶ嶽七本槍の一人。

    秀吉没後は徳川の家臣となったが、加藤清正亡き後、肥後の大守となった細川忠興と昵懇であった。

    忠興は権兵衛の身振り手振りを交えての武勇伝を聞くのが大好きで、よく酒を飲みながらかたらった。

    あるとき忠興は権兵衛に録(給料)はいくらなのかを問う。

    権兵衛が五千石だとわかると忠興は、
    「なんと、たった五千石か。権兵衛、どうじゃ。余に仕えぬか?三万石出すぞ」

    万石取りだ。陪臣とはいえ、大名扱いになるのだ。賎ヶ嶽の同僚達は皆大名だ。権兵衛にとっては夢の出世。

    ところが権兵衛は、無造作に立ち上がると縁側まで行き、庭に向かって小便を放った。そして、
    「忠興殿のお言葉誠に忝ない。ただ高録を頂いてしまいますと、このように自由に小便も出来ぬようになりますので…」

    半分は同僚への反発でしょう。
    賎ヶ嶽の同僚、福島正則は安岐広島で四十九万石、加藤清正は肥後五十四万石、加藤嘉明は会津四十万石。
    大大名に出世してゆく同僚の傍ら、自らはいつまでもたっても旗本止まり。今更三万石を貰って…

    権兵衛は媚びへつらうことが苦手な豪傑肌なだけに、主君の秀吉にもあまり快く思われてないふしがあったようです。

    今更という気持ちと、我が道を行くという意地があったのでしょう。
    まぁ、人にはその人にあった「生き方」があるというもので…


    だから長いって!
      


  • Posted by せんごく at 21:39Comments(0)

    2008年01月07日

    無欲?

    まったくちょいねたにならなくて三千里…

    さて、竹中半兵衛重治。ご存知、秀吉に天下を取らせた男。

    ちょっとした疑問。

    こやつ、秀吉さんの味方になる前は美濃菩提山城で1万石を領してたとか、なんか本で読んだことあった気がするのですが…、ちょっと待てよ。

    まだ木下藤吉郎と名乗っていた頃の秀吉よりも断トツの給料とちゃいますか?

    秀吉さん、竹中さんを味方に付ける前は足軽組頭で、織田家では下っ端だった。

    更に言えば、当時の織田家で万石取りの武将はいません。

    竹中家、どんだけでかい土豪なんだと。

    織田の直臣になって給料が何百分の一になったんだか。

    秀吉の人柄に惹かれたのか、長いものに巻かれたのか、私は前者の方がロマンがあって好きですけど。

    日本版三顧の礼ってか。

    まぁそもそも一万石ってのがわたくしのとんだ勘違いであったら恐縮の次第。
      


  • Posted by せんごく at 00:01Comments(2)

    2008年01月01日

    明けまして、信長公。

    なんだかいつも長い…
    ちょいネタを求めて更に更に三千里。

    秀吉さんの部下で美濃川並衆出身の前野長康。
    その長康箸「武功夜話」。伊勢湾台風の時にひょっこりみつかった資料とか。

    信長が芋汁を「うまいうまい」とバクバク食べた、とその資料に載ってるとか。長康達が献上したらしい。

    信長さんはやっぱり、野趣深い料理がお好きなんでしょうかね。

    天下を支配した阿波の三好家お抱えの料理人に料理を作らせたところ、信の旦那は「まずい…貴様死ねぃ」と。
    料理人には料理人のプライドがあり「もう一度作らせてくれ。それでマズけりゃ煮るなり焼くなり好きにしろい」と。

    そして作り直した料理に、信の旦那はご満悦。
    後にこの料理人は、「信長はやっぱり田舎大名だ。最初に作った料理は京の公家風に味付けしたものよ。そのあと出した料理は地方の田舎料理だ」と。

    ちと負け惜しみに近い言い分ではありますが、まぁ、信さん、珍味などよりも意外に質素な料理が好きだったんじゃないすかね。
      


  • Posted by せんごく at 21:09Comments(0)

    2007年12月29日

    聖武の器

    ちょいネタを求めて更に三千里。

    毛利元就さんの次男、吉川元春。猛将の誉れ高く、弟の小早川隆景と共に、甥の毛利輝元を支える。

    その元春の嫁取りの話し。
    元就は元春に意中の者がいるかどうか問うべく、家臣の児玉某にそれとなく探らせる。元春は熊谷信直の娘を望んだ。
    不審に思った児玉は元春にその真意を確認した。
    なぜなら、熊谷信直の娘は評判の「醜女」だったからだ。ようするにブスです。天下の周知のブス。うん、それは言い過ぎ。

    すると元春は、
    「熊谷の娘がブスなのは知っている。ただこの中国に、熊谷信直に勝る侍大将はいない。信直は娘が嫁に行けないのを不憫に思っているに違いない。俺が熊谷の娘を娘を望めば、熊谷は俺の意気に感じて、俺の為に共に戦ってくれるに違いない。俺は熊谷を舅につけて、中国地方を暴れ回る」
    元春の言葉を伝え聞いた元就は「神妙なる心掛け」と大層喜び、さっそく熊谷家に縁談を持ち掛けた。

    熊谷は飛び上がるほど娘の縁談を喜び、毛利家、ひいては婿殿元春の為に不借身命の働きをした。

    20歳の元春と戦った毛利の宿敵尼子国久は、若い元春を侮ったが、軍団の駆け引きの巧みさが 20歳のそれではなく、「さてもさても毛利元就はめでたい大将だ。子供まで上手く産みおった」と嘆息したそうだ。

    勿論、吉川勢の強さは、精強熊谷衆に起因するのは言うまでもない。
    ちなみに、元春はその娘との間に三男二女をもうけている。
    三男が毛利家の運命を左右させた広家である。

    ちと長い…
      


  • Posted by せんごく at 03:00Comments(0)

    2007年12月26日

    ちゃっかり三河武士

    より簡潔なネタを求めて三千里。
    家康さんの部下、鳥居彦右衛門元忠。
    家康の人質時代から苦楽を共にした、頑固一徹ミスター三河武士。
    秀吉さんが、家康の主な部下に官位を与えようとしたところ、元忠は「殿下の前で粗相をするやもしれませぬから」と天下人の厚意を拒否。
    秀吉の人たらし術には乗らぬぞ、との元忠なりの意思表示です。

    そんな彦右さん、あるとき家康さんから武田の猛将・馬場美濃守の娘を捜せと言われる。絶世の美女と評判だったからだ。
    ところが彦さん、家康さんには「みつかりませんでした」と報告しておきながら、ひそかに自亭に匿っていました。
    その後、馬場の娘が鳥居家に居ると知った家康は「彦右の奴、ちゃっかりしとる」と苦笑いだったとか。

    主の為なら命も惜しまない三河武士が、女の事で主に平気で嘘をつくのが、私にはかなりツボです(笑)

    ちなみに彦さん、この娘との間に二男三女をもうけています。

    確かに彦右、ちゃっかりしとる。
      


  • Posted by せんごく at 12:16Comments(0)

    2007年12月19日

    晴信少年

    武田信玄さん、13歳のエピソード。
    今川に嫁いでいる姉さんから、蛤が3千個ほど届きました。絵を描く遊び道具ですね。
    信玄さんは、家臣におおざっぱな数を当てさせます。
    ある者は5000くらいだろう、と。またある者は10000くらいだ、と。
    少年信玄はそれを聞いて、
    「うん、やっぱり数ではないな。5000の手勢を手足のごとく操ることが出来れば、10000にも20000にも見せることができる」
    と一人ほくそ笑んでいたようです。
    孫子の兵法を愛読した信玄ならでわのエピソードですが、13歳…。
    不気味だ… 不気味過ぎる…
      


  • Posted by せんごく at 22:00Comments(2)

    2007年12月17日

    加藤左馬助嘉明

    感動話第二段。
    加藤嘉明。通称左馬助。秀吉さん子飼いの部下で、賎ケ嶽七本槍の一人。
    嘉明さんというと、伊予松山城を思い浮かべます。あの壮大にして美しき城。
    秀吉さんの子飼いは加藤清正はじめ、築城名人が多いですな。

    それはともかく嘉明さん。部下に西川某(仮名)という武士がおりましたが、関ヶ原の戦いの後、西川は、
    「訳あって出仕を辞退する。ただ二君にはまみえず。お家の一大事には必ず駆け付ける」とだけを言いを残し、友人が留めるのも聞かず、勝手に禄を返上しいずこかに旅だってしまった。
    脱サラしてフリーターになったのだ。
    西川はその後、14年間諸国を転々としたが、徳川と豊臣、東西手切れとなっていざ合戦、となった時、「すわ、お家の一大事」と加藤家に駆け戻ってきました。
    西川は流石に気まずかったのか、友人にだけ戻ったことを伝えると、友人から主人の嘉明まで話が行き、謁見となりました。
    ドキドキの西川くん。そりゃそうです。勝手に仕事を投げすてていなくなった訳ですから。殿さまに「よぅ西川、ノコノコ舞い戻ってくるとはいい度胸だ」
    と切腹を申し渡されても文句は言えません。あれこれ考えて気絶寸前の西川くん。そんな時に嘉明が現れ、
    「西川、しばらくだな。元気にしておったか。お前が戻ってくるのを待っていたぞ」
    と嘉明。
    ひたすら恐縮するしどろもどろの西川とは裏腹に、帰参の話はとんとん拍子、見事西川の再出仕が決定しました。
    「とっ殿!手前の帰参をお許し頂けるとは…!」
    感動の西川。
    そこで嘉明の旦那は、「西川にあれをもて」と、西川の前に、ドスンッ、と山の様な金を用意させました。
    わけがわからず目が点の西川に、
    「西川、お前の14年間分の給与だ。お前が帰って来ると信じて、お前の分の給与をとっておいた。受け取れ」
    と嘉明。
    西川はビックリ仰天して、
    「殿!私はこの14年間仕事をしておりませんでした。どうしてこの金を受け取れましょうや」
    と西川。当たり前です。
    すると嘉明は
    「いや、お前は確かに仕事はしておらなんだが、この14年の間、主君はこの嘉明だけと決めて、他家に士官することもなく、貧乏暮らしを送ってきた。そしてこの東西手切れに及んで当家に戻ってきてくれた。わしはその心根が嬉しい。だからお前にこの金を受け取ってもらいたいのだ」と。
    西川は涙を流して
    「私は馬鹿なことをいたしました。もう二度とご当家を離れたりはいたしませぬ」

    西川がその後、加藤家の為に不借身命の働きをしたのは言うまでもありません。
      


  • Posted by せんごく at 00:22Comments(0)

    2007年12月11日

    蒲生風呂

    今回は感動ものネタでいってみようかなと。会津宰相蒲生氏郷(ウジサト)殿。近江日野城主、蒲生賢秀?だっけな、の嫡男として生まれ、蒲生家が信長さんに降参したとき、人質として信長さんの元に行きました。
    氏郷くんは通称忠三郎と名乗りましたが、才気溢れる忠三郎少年は信長さんの目にとまり、娘の冬姫?を嫁に与えるほどでした。
    そんな忠三郎氏郷くんは、合戦場では勇猛果敢、また連歌をよくし、茶は千の利休の高弟として腕はぴか一、非の打ち所がないほど文武両道のミスター安土桃山、といってもよい男です。直言して憚らないのがちと玉に疵ではありますが…
    さて感動話、これはまだ忠三郎さんが会津92万石の大大名に出世する前の、まだ貧しかった頃の話。
    あるとき、忠三郎は戦で功のあった家臣5名を自分の屋敷に招きました。
    主人から招きのあった5名は喜び勇んで屋敷へと足を運ばせました。
    「おぉ、よぉ参ったな。待っておったぞ。ご馳走も用意してあるが、まず湯にでも浸かって汗でも流せ」
    と忠三郎。
    家臣たちは主人に言われるままに風呂場へと足を運びます。
    「殿の屋敷で風呂を頂くなどとは贅沢なもんじゃ」
    「まっこと。いい湯にござる」
    と、思い思いに湯を使っていると、外のカマドの方から、
    「湯加減はどうだ?」と一言。
    家臣たちは皆、ハッと顔を見合わせます。
    そう、自分達の使っている湯を外で沸かしているのは、主人の忠三郎氏郷その人でした。(しまった…知らぬとはもうせ、殿様に湯を沸かせてしもうた…)家臣達は皆一様に顔を真っ青にして、どうしてよいかわからなくなっている所、
    「おまえ達の命懸けの働きに充分な恩賞も出してやれずにすまぬ。今わしがしてやれることはこんなことしかないが許してくれ」
    と、忠三郎。
    主人の温かい思いやりに、家臣達は皆風呂場で男泣きしました。

    家臣達はこれを「蒲生風呂」と呼び、殿様の屋敷で風呂を頂戴することを、家臣として最高の栄誉としました。
      


  • Posted by せんごく at 21:34Comments(2)

    2007年12月06日

    名将

    立花道雪といえば、はい、大友宗麟を支えた九州一の名将ですな。信長の野望をやっていて「あれー?このおっさん、なんでこんなに強いのー?」って思われた方もいらっしゃるかと思います。
    しかも強さがケタ違い。ええ、このサンオツ、若い頃落雷の衝撃で下半身不随になってしまったのですが、ではなぜ強いのか?
    つまるところ、褒め上手です。
    道雪の信条は「世の中に駄目な奴なんていない、そいつが駄目なのは大将が悪いのだ。わしのところにくれば一人前の男にしてやろう」です。
    家臣が客人の前で粗相をしたとき「コヤツは畳みの上ではイマイチちゃんだが、槍を握らせれば千軍万馬ですぞ」と槍をしごくマネをしてフォローをいれる。
    手柄のない家臣には「手柄がないからと焦るなよ。いつまでも生き抜いてこの道雪を守ってくれよ」と武具を与えて慰める。
    「あの鈍臭いすっとこどっこい。全く使えん!」と批判されてる部下がいると、「あやつはただボーとしておる訳ではない。元来思慮深いのだ。誰にも考えられない戦略を練っているに違いない」と本人がいないところで吹聴する。
    上司に目をかけられる、期待されてると知った部下で、発奮しない者はいないでしょう。彼らがこぞってその後の合戦で手柄を立てたのはいうまでもありません。

    道雪は下半身不随の為、出陣する際は輿に乗り、周りは屈強の兵100人程で固めさせ、片手に火繩銃、片手に軍配か刀かこん棒か、を持って督戦したそうです。こん棒なわけないか(笑)
    自軍が窮地に陥ると「ほーれ!わし(輿)をあの敵陣に放り出せ!」と叱咤激励したそうです。
    道雪の部下も、自分達の大将を敵陣に取り残していくわけにもいきませんから、大将を守るため、皆が一丸となり火の玉となって戦ったそうです。
    だから立花隊は無類の強さをほこったのでしょう。

    大将たるもの、常に配下の者には心こまやかな配慮が必要だということです。勉強になります。
      


  • Posted by せんごく at 06:59Comments(2)

    2007年12月03日

    柳川侍従

    戦って無敗の男、立花宗茂をご紹介します。知名度は低いですが、人物としてはなかなかどうして、当代一流の品格を持った武将ですね。わたくしの好きな武将の一人です。
    宗茂は九州は豊後大友家の二枚看板、高橋紹運の実子にて、立花道雪の養子となり立花性を名乗りました。
    九州統一を狙う島津忠長勢五万を相手に一歩も引かず、関白秀吉の援軍が来るまで立花城を小勢で守り抜きました。(実父の高橋紹運はこの時、関白軍来援の時間稼ぎの為に岩谷城だか宝満城だかで忠長勢と1500の手勢で悠々と戦い、討ち死にしております)。
    宗茂は実父の死を無駄にせず、関白軍来援に勢いをつけ、撤退する島津軍を追撃してさんざんに蹴散らし、敵城を一つ力攻めで落とす奮闘ぶり。
    秀吉は、大友軍が次々と島津方に打ち破られ、寝返りが続出するなかで、父とともに最後まで落ち目の大友家を支えようとした宗茂の忠義と、城を守り抜くに飽き足らず追撃して敵城を落とした剛勇ぶりを「鎮西無双」と絶賛しました。
    宗茂は大友家家臣から秀吉の直臣となり、累進して筑後柳川で13万石の大名となりました。
    官位も秀吉の斡旋で「従四位下侍従」となりましたが、宗茂は「旧主の大友義統殿(宗麟の息子)がいまだ従五位下であるのにわたくしが四位を頂くわけには参りません」と断ったそうです。
    秀吉さんはこういう青年武将は好きでしょうね。
    義に篤く、節を重んじ、若くして沈着冷静、かつ勇猛果敢ときたもんだ。
    大友のすっとこどっけいなんかの家来にしておくなんて勿体ない。直臣にしたくなる気持ちもわかります。
    宗茂さん、マイナーな割には数々のちょっとしたエピソードのある人物です。
    またちょこちょこご紹介いたしましょう。
      


  • Posted by せんごく at 13:00Comments(0)

    2007年11月16日

    諌言すること

    徳川家康さんは「諌言をすることは、一番槍よりも難しい」と言ったそうです。
    確かに普通は主人に追従こそすれ、牙を向けるなどは誰でも嫌がります。
    そりゃそうですよね。バトルにもなりかねませんし、なんなくても睨まれることになるかもしれない。最悪切腹ですから。
    出来れば平和に付き合いたいのが人情でしょう。
    だからこそ、主人に対し「駄目なものは駄目」とハッキリ言うことは、戦場で敵を真っ先に討ち取るよりも難しいということなのでしょう。
    諌言役の家臣がいて、その主君が耳に痛いことを聞くことの出来る度量があれば、その組織は正しかろうと存ずる。
    組織とはかくありたいもので。
      


  • Posted by せんごく at 00:54Comments(2)

    2007年11月14日

    Bigなのになぜ?

    筑後柳川といえば、そうあの旦那、立花宗茂!ではなくて、今回は田中吉政です。小ネタというか、小さな不思議。
    田中さん、秀吉さんの家来として累進し、豊臣政権下で三河の岡崎でしたっけ、東海道のどっかで10万石程度の大名だったと記憶してます。江戸の徳川対策として、万一家康が秀吉に叛旗を翻して上京してきたときは、駿河・遠江・三河東海三国で食い止める為に選ばれた家来ね。それなりに秀吉さんから信頼されてたオッサンです。ちなみに、駿府に中村一氏、掛川に山内一豊、浜松に堀尾吉晴、そんで確か岡崎に田中さん、清洲に福島正則。清洲は尾張だけどね。あれ、どっかに生駒なんとかが入ったけな?
    それはともかく、関ヶ原の合戦の際も家康方東軍に属し、その恩賞として筑後32万石に封ぜられました。
    大大名です。豊家出身では加藤清正、黒田長政、池田輝政、福島正則につぐくらいの大出世!
    にも関わらず、こいつの名言・武勇伝が一切ない。もちろん全くないわけではないのだろうが、あたしが読んできた本の中には出てこなかった。30万石クラスの大名のくせに!
    田中吉政をフィーチャーした本もない!森可成とかですらあるのに(笑)たいがいはあんなことやった、そんなこと言ったと、なんか一つくらいあってもよいものを。えぇ、いいんですよ、謙信さんの「酒の肴は梅干しに限る」程度のことでもいいんです(笑)(戦国武将一日一言よりPHP文庫)。そんな他愛ないエピソードすら聞こえてこない!コイツは何者なんだと。
    まぁ、関ヶ原後、落ち武者狩で朋友の三成さんを捕まえたっつーくらい。でもまぁこれは事実なだけでエピソードでもなんでもないけど。
    まぁでも不思議です。仮にも30万石クラスの大名にまでのし上がった人物にも関わらず…わたくしめが不勉強故しらぬだけなのかどうか…
    口説いですが 30万石…。
    まぁ、コヤツは結局城普請等で領民を搾取しすぎたことで自滅したので、所詮はその程度の男だったのであろうなと。
    まぁ諌言出来る家来がいなかったんでしょうな。大将に迎合するばかりの組織は駄目になるってことですね…。
    また長くなった…
      


  • Posted by せんごく at 19:57Comments(0)

    2007年11月11日

    石高制って

    戦国時代も末期になると、土地の広さを石高(こくだか)で表すようになりますが、その侍が、何石取りの侍なのかどうかでその人の地位や実力がおおよそわかります。
    例えば一万石の領土があるとすると、250人の動員兵力があると考えられています。一万石以上の侍は大名(だいみょう)と呼ばれます。
    ちなみに、1石は人間一人が一年間で食う米の量のことです。
    当時は侍の恩賞=土地でしたから、戦国の武士は一寸でも多くの領土を増やすのに躍起になりました。
    それはともかく、一万石で250人だとすると、100万石で25000人の兵士を動員できます。逆に、千石だと25人です。なるほど500石だとさらにその半分。

    あたしが個人的にひそかに妄想して楽しんでいるのは、例えば千石取りの侍なら25人の社員を採用してる社長って考え(笑)。
    社員が100人くらいの会社なら、4000石取り程度の会社だなと(笑)
    そう考えると、今も昔も大名になるのはホント大変だなと(笑)
    戦国時代という高度成長期なら、手柄次第でどんどん出世出来ますが、泰平の世では経済が飽和状態で出世もなにもない。
    ゴマスリかよほどの努力研鑽があっての加増しか望めないんですね。
    関ヶ原合戦の際、柳生旧領3000石の復活を賭けて参戦した柳生宗矩殿、剣法指南役という立場で徳川時代の泰平の世で、大名にまで出世したのはたいしたもんです。二代将軍秀忠の側近というナイスポジションだったからかな。
      


  • Posted by せんごく at 00:51Comments(3)

    2007年11月09日

    小ネタとは関係ないけど

    時代小説を読むときって必ず想像力を働かせて読むんです。
    私は文字を追いかけてその作家の表現力を堪能する傍ら、その場面を頭の中で想像しながら読むんです。自然と。多分皆さんもそうだと思いますが。
    一度想像した頭の中の映像は絶対のもので、何度読んでも漫画を見るのと同じように同じ映像を想像します。
    想像力は千差万別ですから、幾通りもの楽しみ方があることになります。
    私はまれに、小説の一つの場面で、別の人ならどんな風景を想像するんだろう、と考えることがあります。
    なんとかその想像上の映像を現実の映像におとしこんで、想像力を比べっこしてみたいと思うことがあります。
    まっ 相手の頭の中を読み取れるようなドラえもんの未来道具でもなきゃ無理だけどね(笑)
      


  • Posted by せんごく at 03:24Comments(2)

    2007年11月08日

    戦国無双にさ、

    聞いたとこでは、『戦国無双』では、本多忠勝がもの凄い強いそうですね。このblogでも取り上げたことありますが。まぁ三国志でいう呂布みたいなもんか。平八のとっつあん、流石です。
    でもゲームに出て来るキャラは戦国武将としてはメジャー過ぎて面白くない。
    もっと通常ではゲームで主役を勤めれない、天下の猛将智将を扱った『外伝』とかあっても面白いと思う。
    後藤又兵衛、馬場信春、立花道雪、山中鹿之助、北条綱成、伴団右衛門、松永久秀、木村重成、渡辺勘兵衛、吉川元春等。ナドナド。
    実力十分だけど知名度がいまいちだったり、「〜家にその人あり」といわれた連中の外伝。
    あたしはオモロイと思うね。あたしだけ??否、売れるっつーの。マニアが買うっつーの。KOEIさん頼むっつーの。


    まぁ、そもそもあたし、戦国無双やったこともなければプレステ自体も持ってないんだけどね(笑)
      


  • Posted by せんごく at 09:44Comments(4)

    2007年11月06日

    寝れん!寝れんぞ!そんな時には

    よっしゃ!次!短く、且、内容ある小ネタを!うん!無理!
    ミスター戦国大名こと北条早雲さん。後北条小田原五代の祖。天下に名を轟かせたのは齢60。小田原城を乗っ取ったのが70代だっけ?死んだのが88歳。人間50年の時代だから、とんだハッスルジジイなわけだこれが。
    税をそれまでの六公四民から四公六民にするなど、非常に領民を労った名君でしたが、とにかく武士は本を読め、との名言を残してます。常に懐中に本をしまって、僅かな時間を利用してでも本を読んで文字に慣れ親しんでおくべきだ、と言っています。文武両道は今も昔も変わりません。テレビで本を読んでますか、のアンケートで、読んでない人の一番の理由、「時間がない」。ウソこけっつーの!読むことを強制はしませんが、読む気もない人が言う理由じゃありませんよね(笑)
    本を通して時代を遡り、世界の名将知将、文豪達と会話が出来る、素晴らしいツールです。誰も頼ることが出来ないとき、本に答えが載ってるかもしれません。迷ったら本にきく。早雲さんにあやかりたいものです。
      


  • Posted by せんごく at 03:10Comments(4)

    2007年11月06日

    攻めてなんぼ!載せるでぇ〜

    今回はホントに小ネタ。戦国の霸王、信長さんには確認されてるだけで22人の子供がいたそうですが、そのうちの5男勝長くんは、本能寺の変で、兄貴の信忠とともに二条城で奮死したんだって。
    享年15歳だかなんだか。歴史に出て来るのはこの時くらいだけど、信長さんの息子さんってことで、一体どんな育ちをしてたんでしょうか、気になります。勝長くんの弟たちは、当然ちびっ子すぎて何の役にも立たなかったんでしょうけど、その後の消息がやっぱり気になりますね。 どなたかご存知の方いらっしゃいますか?教えて下さい。
    ちなみに、信長さんの長男は信忠さん(ザ・ノーマル)、順に信雄さん(北畠に養子、強欲のすっとこどっこい)、信孝さん(神戸に養子、辞世の句が強烈)、秀勝くん(秀吉さん養子)、そんで勝長くんです。
    次回はもっと短くしましょう。
      


  • Posted by せんごく at 02:42Comments(2)

    2007年11月05日

    9月18日の記事

    いやいや、七日一言が聞いて呆れる。すっかり一月一言になっておりますが、そんなこまかい話しは抜きにして、今日もいつも通り始めてみますか…
    小ネタですよ、ええ、戦国通には毎度お馴染みのちり紙交換同然のネタですよ。どうしましょうかね、今日は何となく、渡辺勘兵衛了をやってみますか。了ちゃんです。読みは「さとる」です。
    なんで渡辺勘兵衛かというと、司馬さんの『軍師ふたり』を読みました。
    話飛びますけど、あたくし、実はあんまし司馬さん読んでないんですよね。歴史小説会の大御所なのに。初めて読んだのは「功名が辻」、そんで「関ヶ原」。少なっ(笑)べつに理由はないです。隆氏の『一夢庵風流記』が好きでしばしば読みます。隆先生の作品は少ないので隆ワールドを体感しやすい。とりあえず全部集めました。どれもこれも面白いですね。わたくし、色んな方の作品を読み比べたりはしないので、どう面白いのかと聞かれると困るのですが、ある方の評論によれば、『みちみちの者』という『上ナシ(自分たちよりも偉い人はいない、自分を縛るものはなにもない)』が信条の人々が作品の根幹にあり、それが隆氏のほぼ全作品共通したテーマとなってます。
    話しが飛んでしまいましたが、勘兵衛さんでしたね、えぇ、この男に関してのちょっとした経歴は『軍師二人』を読んで初めて知りました。『メジャーな戦国陪臣リスト』には確実に載る(そんなのありませんが…)人物です。
    私が勘兵衛を初めて知ったのは、藤堂高虎が渡辺勘兵衛を二万石で召し抱えた話しです。まっ それしか知りません。高虎と仲の悪い加藤嘉明が「藤堂は阿呆だ。渡辺に二万石を出すくらいなら、百石とりの侍を二百人採用した方がましだ。渡辺がどんなに強くても二百人に囲まれたらどうにもなるまい」と陰で言った事に対し、「加藤殿はわかっていない。渡辺ほど武勇の士ならば、『ここは渡辺勘兵衛が守ってるぞ』と敵方に伝わるだけで、敵は攻めてこれないものだ」と言ったエビソードです。
    陪臣で万石とりの人物はそういません。軍に強い人物はいくらでもいたでしょうが、万石をもらうにはよほどの武功と実力、名声がないと無理です。
    渡辺勘兵衛はそれだけでも一流の人物だったのでしょう。

    あの、この記事9月に載せる予定だったんですが、戦国小ネタとかいいながら長い!小ネタになってないので一端終了します。
    今度はホントに小ネタで勝負します。
    中途半端で誠に恐縮。  


  • Posted by せんごく at 07:50Comments(0)

    2007年08月21日

    8月21日の記事

    もう久しぶりの投稿ですよ。ええ、七日一言とか言っちゃって、ちーーとも更新しねぇでやんの。
    まっ そんなことはともかく、まぁ要するに、しっかりやろうとしすぎた結果がこれね。「為になる!歴史講座」みたいな。
    そもそも、そんなたいそーなこと知らねーっつーの!テキトーぶっこきゃいーっつーの!
    そんなわけで、そうそう、本多の平ちゃんね、確かコイツについて語ろうかと思ってたんですよね。語るっつーか、テキトーぶっこきます。ええ。
    本多平八郎さんね、歴史好きの間じゃ、聞こえたサンオツですよ。なんてったって強かった。イメージとしては三国志の関羽とか張飛みたいなノリね。まぁそりゃ言い過ぎか…あいつらの強さは一騎当千どころか、一騎当万並の強さを演じてるしね。
    でも平ちゃんだって負けてない!平ちゃん語る上で見逃せないのはやっぱ「一言坂の戦い」。武田の大軍あいてに、平ちゃん一人で奮戦して、小勢の主君家康を無事退却させたっつーやつ。武田勢は、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」と平ちゃんの主君への忠義と武勇を激賞するほど。
    唐の頭ってのはヤクの毛をあしらった外国製の兜、それと平八のとっつぁんが家康ごときにはもったいないってことです。
    後に「海道一の弓取」とか、日本国最高の野戦指令官と言われる男も、信玄大先生の前ではお子様ランチ同然だったということです。
    それはともかく、後は「小牧の戦」ですね。これまた退却する家康の為に、自らが犠牲になる覚悟で、迫る秀吉軍八万に対して、本多勢たった五百で立ち向かったってやつ。川を挟んで秀吉軍八万と平走して空に鉄炮をぶっぱなしながら、「来るなら来いや」といわんばかりに喧嘩を売っちゃいました。平八のとっつぁんは、それで少しでも秀吉軍が自軍につかまれば、家康を遠くに逃がすことが出来ると考えたんですね。なんと忠義なこと!
    当然秀吉軍の中からは「あの本多のチョウシコキ、一発いわしたらなあきまへんで!」という声が出たものの、平八郎の武勇と忠義を知っていた秀吉は「よいよい、ほっとけ、放置プレーじゃ」とあえて、天下の勇士を殺すことをしなかった。
    平八郎の忠義に痛く感動したのか、後に秀吉は、全国の大名の前で平八郎を呼び、「東国無双の男」「果実兼備の勇士」と賞賛した。
    まだまだありまっせ。平八の武勇伝。さわりだけでもかなり長い文になるんですね…ちょっと疲れた。

    次はいつになるやら、テキトーな人物でテキトーぶっこかせて頂けたらなと思います。
      


  • Posted by せんごく at 09:44Comments(2)